★《撮る》我を忘れて「感動」を撮る
あらまし: 「ファインダー覗き」で、我を忘れるほどの感動経験(純粋経験)が味わえる。
以前、「感動の一瞬を捉える」ことが、話題になったことがあります。
ある方は以下のようにいいました。
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感動の一瞬を捉えるにはファインダー覗きが鉄則でしょう。Watch!です。視界のほんの
一部にデジカメのモニターを配置して、See状態でシャッター押しても無理でしょう。
私も古いCanonAE-1の方が、新しいEOSより魂の写真が撮れます。
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「感動の一瞬」を捉えるという中では、「我を忘れた状態」が必要で、
その意味では、「ファインダー覗き」は、まったくそのとおりだと思いました。
ある日、ロボットコンテストを始めた著名な先生の講演を聞く機会がありました。
ロボコンは、現在多くの学校でも実施されていますが、その準備をする子供たちの
熱中ぶりには驚くものがありました。勉学とは異なった能力が発揮されるようで、
その感想文にも大いに感動したことを覚えています。
「自分とその対象のモノがあった場合、モノを対象として意識してしまう。
これは、熱中しているとはいえない。自分の存在を消すことにより、対象の意味をなくすこと。
結果的にモノだけが残ることから、これが熱中している状態といえる。」
この話を、「感動の一瞬をとらえる」話に置き換えてみました。
「写真を撮る際には、自分とその対象の被写体がある。自分の存在を消すことにより、
対象の意味がなくなり被写体だけになる。」。つまり、自分の存在を消すことにより、
「一瞬の出来事」だけが残るということなんですね。
たしかに、何事にも感動している時は、まったく、我を忘れた状態になっているようです。
人に伝わるかどうかは、見る人も「我を忘れるか」どうか、ということではないでしょうか。
見る側に対して「ねぇ、これ、いいでしょ。」という程度の写真は、自己満足の世界そのもの。
感動している時は、時間の概念がなくなりますが、「ファインダー覗き」は、
自分の存在を消してしまう、という効果があるのものといえます。
ところが、いつごろからでしょうか、乱視と老眼が混在したわたしの眼では、
ファインダーが覗けなくなってしまったんです。ファインダーに装着するものも
何個か変えましたが、どこか自信がない。
オートフォーカスを使ったこともありますが、ファインダーを覗き、ピントを合わせ、
その「一瞬」が見えた時に、夢中でシャッターを押す。
あのゾクゾクするような、感覚が味わえないことには、どうしようも熱中できません。
結局、自分の機能の欠陥を補うカメラも見当たらず、現在は、ケータイカメラの
モニターを使って撮っています。ファインダー覗きはできないですが、
我を忘れるほどの感動の経験(純粋経験)は、いくつも体験しているので、
これからは、その機会を逃さない、ということを念頭に、撮り続けようと思っています。
以下は、「Sanyo W31SA」の携帯カメラで撮影。2008年、このカメラは、突然壊れた。修理にもだしたが、メーカーにて直す気がないのか、復活することはなかった。次の携帯カメラは、同じ画素数にもかかわらず、性能からか、まったく「感動」が撮れない。「悲感動」だけが残った。
クリックすると、大きな写真で見ることができます。
2007/9/22 exblog
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