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★《創る》創作料理の心得

あらまし: いまある食材で何の料理ができるかを考えると、それが創作料理になる

創作料理というのをよく聞きます。実際には勉強をしたことがないので、作り方などは知りませんが、ただ、「創作」の手法は、心得ているつもりなので、その手法を用いれば、創作料理は、可能であるように思います。

 

おいしいものを食べるための「三種の神器」としてあげるとすれば、「食材」「調味料」「食器」でしょう。電気・ガス・鍋など調理器具なども含まれるかもしれませんが、加熱しなくともおいしいものはできるので、絶対的に必要なものとはいえません。

 

「調味料」「器」に関しては、長期保存が可能なため、おおむねどの家庭でも、ある程度は揃えているかと思いますが、「食材」は賞味期限があるため、そのたびに揃える必要があります。一般的な料理(定型料理としよう)を作る時の方法を見ていると、料理の本に出ていた「写真」を思い浮かべ、そのレシピ(いつから、献立をレシピというようになったのだろう)を見ることが、多いようです。

 

食材のお店が遠方の人は、常々大量購入しているので、冷蔵庫・冷凍庫に蓄えてある材料を選別しますが、不足しているものがあれば、レシピを変更。または遊びに行った際にでも、お目当ての材料を購入し、そのレシピに沿って作るでしょう。食材のお店が身近な人、または常に新鮮なものを志向する人は、必要なものを近所から仕入れるので、レシピ通りのものが作ることができます。再度、その過程をみると、

 

「今日の夕食は、なににしようかしら?」とレシピを見る。

 

「よし、ロールキャベツにサラダだ。」と献立を思い浮かべ、冷蔵庫を覗く。

 

「でも、玉葱はあるけど、挽肉とキャベツがないわ。」と言って考える。

 

「今日は伊勢丹へ洋服を買いにいくので、その帰りにデパ地下で買ってこよう。」となります。

 

材料をそろえ、料理本に沿って作っていくと、当然、そのとおりのものができるわけです。たまに、分量を間違え、若干異なったものができるのは、経験とともに修正され、何回か作るうちに、レシピどおりのおいしい料理が出来上がる、ということになります。

 

創作料理をこの手順で作るのは難しいです。なぜならば、最初に頭の中に思い浮かべたものは、すでに料理として出来上がっているも同然であるからです。旅行に例えると、「今日は、長野の善光寺に行こう。」と決めた時点で、「創作性」はなくなってしまいます。この目標に従って宿や切符を手配することによって、ほぼ確実に善光寺でお参りができるわけですね。

 

もちろん、長野新幹線(いつのまにか「長野行き新幹線」が「長野新幹線」に変わっていた)経由で善光寺に行くノーマルな行き方に対して、遠回りの越後湯沢(上越新幹線+ほくほく線)経由で行くなど、オリジナル性の高い旅行も組めるわけですが、少なくとも、創作とは「偶発的な場面」が伴うことから、計画された通りにことが運ぶのは、「定形旅行」というべきでしょう。

 

「創作旅行」とは、「今日は、信州方面に行ってみよう。」のように、ほぼ行く方向は決めますが、宿も予約せず、切符も最低運賃を買って、行きあたりばったりで、旅する方法だと思っています。つまりは、人は困ることによって、新たな「道(仮説)」を発見することができるものではないか、ということ。苦悩の末、「そうだ!」とばかりに、他人が考え出さないことを発想することができるわけです。苦悩に追い込まれるのは自分だけに、とてもそれは難しい。しかし、「創造性」という潜在能力を発揮させるためには、それを乗り越えなくてはならないんですね。

 

「創作料理」の基本は、「困ること」に他ならない、というのは言い過ぎかもしれませんが、外れてもいないように思います。それでは、どのようにすれば困るのでしょうか。その過程を先ほどの「定形料理」と同様に考えてみます。

 

「今日の夕食は、なににしようかしら?」と冷蔵庫を覗く。

 

「玉葱はあるけど、挽肉とキャベツがないわ。」と言って考える。さあ、困った。何を作るか。

 

「ほかに何があるのだろう?」と、ここで、「三種の神器」のすべてを思い浮かべます。

 

「食材」「調味料」「食器」を使って何を作るか。むしろ何を作るかではなく、どのようなものができるのかを考えるべきでしょう。究極の目標は、おいしいものを作ることですから。玉葱とジャガイモとニンジンのかけら、これだけでも美味しそうなものは作れそう。なんと、ここで「塩」がない!ことに気がついた時は大変です。そんな時は、冷蔵庫の奥にある、ひからびたベーコンで塩気をだしたり、酢で新しい味をだしたりするのもいいでしょうね。その料理は、意外なものに発展していきます。考えただけでも楽しい。

 

場合によっては、得体の知れないものが出来上がることもあります。しかし、それは、長い人生の中で数万回もある夕食のひとつなのですから、気にする必要はありません。しかし、料理は作り手とともに、食べ手がいなければ成立しません。食べ手の方は、どのような状態でも、きちっと評価しなければなりません。食べ手は、それだけの忍耐力も必要なのです。「これは、まずい!なんで、こんなものを食わせるのだ。」などと不平、不満ばかりを言ってはいけません。

 

奥さん「どう、おいしい?」

 

亭主「うん、大丈夫。」

 

という笑い話があります。やさしく言ったつもりの、たった一言の暴言、これは食えません、うまくないです。笑えない人は、この言い回しを実際、ご家庭で使ってみてください。

 

ピカソの描いた有名な絵は「へたうま」です。小学生でも描けそうな絵。しかし、ピカソの過去の絵をみると、それはそれは、見事なものであり、それは、だれもが認めるところでしょう。これらの絵を比較すると、ピカソの「苦悩」とともに、それから解放された「自由さ」が少なからずうかがえます。ある一線を越えると、その人間の「創造性」が発揮され、「自由さ」がでてくるんですね。

 

「へたうま」を造れるのは、基本が備わっているからこそ。基本を覚えるためには、それだけの苦悩と経験をしなければなりません。アートだけでなく、サッカーにしても、ゴルフなどのスポーツにしても、基本を繰り返し経験、体得した後でなければ、個性を生かした、オリジナリティの高い「作品」を生み出すことができないでしょう。

 

子供の教育も同様に、ものの基本を学校で体得させ、その上で創造性を発揮させればいいものと思います。親のエゴともいえる「XXになりなさい。」ではなく、子供の持つ潜在能力をいかに引き出すか、ということを考えるべきでしょう。子供の冷蔵庫に、いろいろな種類の食材を入れ、その料理を考えさせ、イメージさせることが大事です。誰しも、創造性は持っているのですから。

 

「創造性」は、けなすことで、簡単に潰れてしまいます。創造する側も、評価する側も、「謙虚」であってほしいと考える次第です。

 

*「謙遜する」とは、「自慢したいことを相手に言わせるためのひとつの方法」である。(ビアス:悪魔の辞典より)

米原万里「魔女の1ダース―正義と常識に冷や水を浴びせる13章」(新潮文庫)/2001年

*2007/6/12  exblog